書評『この経済政策が民主主義を救う』(松尾匡)
【正しい経済学とは】
経済学はどれを信じればいいのだろう。まず様々な派閥がある。新自由主義派、ケインズ派、リフレ派、財政再建派などが、それぞれ独自の学説を繰り広げる。同じ現象を論じながら正反対の主張になることも多い。それは他の実証的な学問分野と比べても異質である。
どの分野にも様々な見解の対立はあるが、それでも大抵は、基本的な共通認識の基盤がある。しかし経済学ではそもそも「定説」というものがあるのかさえ疑わしい。その言説が今後の経済状況についての予測だった場合、時がたてばどちらかが正しく他方は間違っていた、と判明するはずなのだが、それすらはっきりしない。(バブル崩壊期の政府系の経済予測はことごとく外れたとも言われているが、特に問題になった風もない。)
「正しい」経済学などというものがどこかに存在するのだろうか、とさえ思う。
【経済学の抱える困難】
その理由を少し考えてみる。経済学は現実の世界を対象にした学問だ。それは様々な要素が互いに複雑に入り組み影響しあう「総合的なシステム」を形作る。しかし政策提言や経済予測は、議論の対象となる具体的な状況を設定し、明示的なあるいは暗黙のいくつかの前提の上に展開される。(「大震災やリーマンショック級の事態がなければ・・・」)
さらに立論の厳密性を保持しようとすればするほど、対象を限定し、理想化されたモデルを想定することになり、現実との隔たりはますます大きくなっていく。それでもなお経済学には、現実の場面での重要な経済政策や経済予測が求められ続ける。
経済学の機能は「世界に対しては、様々な立場による様々な見方や解釈が可能である」と私たちに教えてくれることだ、と突き放して受け止めておいた方がいいかもしれないのである。
【「無からおカネを生み出す」?】
前置きが長くなったが本書の内容に戻ろう。著者の執筆の動機は、この夏の選挙で安倍政権が勝利し、憲法改悪や安保、原発推進などの右傾化が進行することへの危機感だ。
著者は人々の関心は何よりも景気拡大だ、という。「この夏の選挙で負けたらもはや回復は出来ない」、「安倍政権よりもさらに景気拡大を主張しよう」、「その主張だけが民主主義を救う」と言い切る。
そのための具体的な方策として本書が提示するのは、「国債を発行しそれを全量日銀に買い取らせる」という手法である。著者の説明によれば、それは「お金を返す時期を永遠に先延ばしすること」であり、「日銀が政府から買い取った国債はこの世から消えてなくなるのと同じ」だという。景気回復のために医療や社会福祉など有用な分野に、いわば「無から生み出したお金を使う」という、夢のような魅力的な提言である。
著者はいわゆる「リフレ派」の経済学者であり、これらの論理展開はリフレ派の典型的な主張でもある。経済状況に関する豊富なデータも論拠として示され、何よりも安倍政権の暴走をなんとか阻止したいという情熱が随所にあふれているため、本書の主張に賛同する読者も多いだろう。
【所得が増えれば需要は増えるか】
これらの論理展開はリフレ派のシナリオに沿って構成されているため一見説得力を持つように見えるが、つぶさに見ていけば恣意的な立論も多く、冒頭に述べたようにまた別の解釈も可能である。
本書の第2章では、「飽食日本は過去の話」、「現代日本にあるのは正真正銘の窮乏」だとしきりに強調されている。これらの指摘は、日本はまだまだ貧しく景気の拡大こそが必要だという立論の根拠になっている。しかし本書のように「これまでたくさんの人たちが生きるか死ぬかのぎりぎりの水準で生きてきた」という荒っぽい前提に立って、「増えた所得は確実に消費の増加にまわる」と本当に言えるのかどうか。
例えば著者はアベノミクスを肯定的に評価する。もともとアベノミクスはリフレ派の主張に親和的な政策である。本書はアベノミクスの第一の矢である「財政出動」と第二の矢である「金融緩和」を高く評価し、逆に第三の矢の「成長戦略」は供給を肥大させ、景気回復にかえってマイナスの効果を及ぼすと断じている。
しかしアベノミクスが発表された当時、成長戦略として盛んに強調されたのは「需要創出型イノベーション」というキーワードだった。第三の矢の成長戦略はむしろ需要サイドの政策だったのである。第一、第二の矢である財政出動も金融緩和も一時的なカンフル剤の効果しか生まず、第三の矢で無理にでも需要を作り出すことがアベノミクスの完成のために要請されていたのである。しかしそれは今も成功していない。
「所得が増えれば需要も増えるはず」という固定的な図式は、今一度再検討が必要なのではないだろうか。
【欧米の左派の主張は景気拡大?】
本書では、提唱するリフレ政策の論拠として、欧米左派の主張がいずれも景気拡大路線であることが繰り返し強調されている。
インフレや景気拡大には、元々、貧富の格差を低減する効果がある。貨幣価値が下がったり経済が拡大したりしていくことで、過去からの蓄積である経済格差は相対的に比重が下がっていく。その意味で、左派が景気拡大政策を掲げることには一定の合理性があるだろう。社会福祉の充実や公共投資の拡大も、低所得者層にとっては最優先の重要な政策だし、財政規律よりも、失業を減らし社会を潤滑に運営し目前の困窮者を救うことのほうが重要だ、というスタンスも左派の面目躍如というところだと思う。
しかしこれも冒頭に書いたように、経済は全体的なシステムとして存在している。景気拡大政策も、何を財源とするかによって意味合いは大きく違ってくる。例えばイギリスのコービンは景気拡大と同時に富裕層への増税を強く打ち出し、アメリカのサンダースも格差の是正やウォール街への課税を政策として前面に掲げる。
本書への疑問の一つは、これらの欧米左派の主張に比べて、著者の提言が緩和マネーの活用に偏り、富裕層への課税などの格差是正策に対して消極的に感じられることだ。アメリカや中国の例を見ても、景気拡大が新たな格差を拡大させる例も多い。「相対的貧困率」が指標として重視されているように、格差こそが貧困の意味をより深刻なものにする。欧米左派とは微妙に違って肝要な問題を回避しているとしたら、それは単なる「大盤振る舞い」政策で、長期的にはかえって人々の信用を失ってしまうのではないか。
【成長と分配のトレードオフ】
「成長と分配」については本書の中でも論じられている個所がある。著者は成長と分配とは必ずしも二者択一ではないという。本書の中で用いられている「分配」とは少し意味が異なるが「成長と分配」をめぐるこれまでの攻防を振り返ってみよう。
戦後の復興期、例えば労使交渉でさかんに用いられたフレーズは、「パイの分配にこだわるよりもパイ全体を大きくすることを目指そうじゃないか」といったものだった。当時はまだ資本主義の隆盛期であり、戦後社会は欧米へのキャッチアップの時期でもあって、分配の問題を先送りにしても人々は経済的に豊かになっていくことが出来た。
しかし経済の成熟期を迎え、地球上のフロンティアは開発しつくされ、ローマクラブのいう「成長の限界」に直面する中で、かつてのような成長は今日では難しくなっている。これまでのように貧困の問題や平等や格差の問題を「景気の拡大」の問題に置き換えたり、「景気の拡大」を流用して解決することがもはや出来ない地点に至っているのである。
それは、本書の中で、「「おカネの使い方をつつましくする志向」と突き放して描かれている「脱成長派」にとっても同様である。かつてのような無限の成長は望めない、目指すべきではないと了解しているならばなおさら、その中で平等な社会を実現する方法を積極的に提言していく必要があるのではないか。「脱成長派」の関心が、経済全体の規模や物質文明や環境制約に対してだけであってはならないことを本書は改めて再確認させてくれる。
【「流動性のわな」を越えて】
著者の見解の中で気になる点についていくつか触れてきたが、賛同できる意見もたくさんある。「もう成長の時代ではないから、経済成長を追求するのではなくて、分配に目を向けよう」という主張も長期的には正しいと、本書の後半には書かれている。
冒頭で考えた経済学というものの特性からいえば、それぞれの流派の解釈や世界観をそのままぶつけあってみても結論を出すのは難しく、あまり生産的ではないだろう。経済学の異なる見解や意見をどのようにすり合わせていけばいいのか、良い工夫はないだろうかと思う。
本書に登場する重要な用語の一つに「流動性のわな」という言葉がある。人々が財産を融通の効く「お金」の形で持っていたがる傾向のことであり、それが失業の原因にもなる。デフレのときはますますその傾向が強まり悪循環に陥っていく。
インフレターゲット政策はまさにこの「流動性のわな」に対するものだ。この政策を採ることで、みんながインフレを予想するようになって当面の消費を増やし、結果として予測が自己実現する、というのがリフレ派の描くシナリオだ。
しかし、それだけでは不安が消えないこともある。その社会の共同性が信頼され、社会保障制度が整備されていく中で、人は初めて安心して消費に向かうものかもしれない。「流動性のわな」は経済政策だけで解決されるとは限らない。
経済を経済の中だけで考えない、というのはもしかしたら大事なヒントかもしれない。経済的な領域は、社会システム全体の一部でありそれだけで独立して存在しているのではないからである。
かつて経済学をその根源から問い直そうと試みたポランニーは、「経済を社会の中に埋め込む」という有名なフレーズを残している。その意味するところはまだ抽象的で漠然としているが、「経済問題の解決を経済学の範囲の中だけで考えない」というスタンスはその作業の端緒になるかもしれないとも思う。