―ポスト新自由主義時代の思想― 若森みどり・平凡社新書
【経済とはなんだろう】
経済成長の時代が再び登場することはあるのだろうか。
近年は「数百年続いた資本主義が終焉を迎えようとしている」という指摘もなされ始めた。「脱成長」というスローガンにもかつてほど違和感は伴わなくなった。それでいて人々の間の経済格差は不気味に広がり続けている。時代が大きな転換点に差しかかっていることに、多くの人が気付き始めているのではないだろうか。
「福祉政策をもっと充実させなければいけない」、「社会的な所得の再分配を手厚くする必要がある」、さらには「ベーシックインカムの導入を図るべきだ」等いくつもの提案がなされている、しかし時代の大きな舵取りを考えようとするなら、私たちはその背後にある「そもそも公平な社会とは何なのか」、「収入や分配をどう捉えるか」、「そもそも経済とは何なのか」という根源的な問いと向き合う必要があるのではないだろうか。
【ポランニーって誰?】
この夏、ポランニーに関する新しい入門書が出版された。世界経済危機の中でカール・ポランニーの思想に世界的な関心が復活しているという。世界経済フォーラムのダボス会議では、「ポランニーの亡霊が出没した」とまで報じられたそうだ。本書は、ポランニーの思想を時代との係わりの中で編年体的に解説したものである。その生涯の経歴と合わせて、ポランニーの思想の全体像が掴めるようになっている。本書の内容を紹介しながら、現代におけるポランニーの思想の重要さをぜひとも伝えられたらと思う。
ポランニーは、一九世紀末のウィーンに生まれた。ブタペスト大学時代に学生運動に関わったことで退学、その後も社会的・政治的運動に関わり続けた。時代の激動の中で、3〇代半ば以降、オーストリア、イギリス、アメリカと亡命生活を余儀なくされながら、自らの思索を深めていった。
ポランニーのライフワークは、人間と市場の関係を根源的に問い直すことだった。「経済を社会の中に埋め込まなければならない」という彼の有名なフレーズがあるが、自由主義的社会主義者として、生涯をかけて経済的自由主義、新自由主義との思想的戦いを続けた。
【自己調整的市場というフィクション】
ポランニーが生きた二〇世紀初頭は、経済的自由主義が隆盛を極め、社会全域に広がっていった時代だった。ポランニーはその時代のただ中に生き、リアルタイムで経済的自由主義との論争を続けた。
経済的自由主義の人間観は人口論を書いたマルサスに象徴される。「貧民を労働に駆り立てるものは、飢餓においてほかにない」、「社会的保護政策は人口の増加を誘発し、社会の最下層の生活をより悪化させる」というものである。社会は人間が作ったルールよりも生物学的な自然ルールに従うもので、貧困の原因は「自然法則による自己調整への政府による侵害」だとさえみなすのである。
しかしポランニーは、自己調整的市場というのは、単なるユートピアで実際には存在しえないと主張する。歴史的にみても、市場は自生的にできたのではなく、土地の囲い込みなど国家の経済自由主義的介入の結果だった。経済的自由主義者にとっては市場社会の完成が進歩の到達点だが、それは労働力の商品化を通じて人間から労働の目的、自尊心の基盤を奪い、土地の商品化を通じて自然環境を汚染し破壊してしまう。また貨幣の商品化によって市場が購買力を支配し、周期的な恐慌につながるとポランニーは考えるのである。
【保護主義の評価】
ポランニーは、マルクス主義によって空想的社会主義と切り捨てられたオウエンを再評価する。オウエンによる社会の発見を重視するのである。「貧困と犯罪の原因は社会にある」、「富裕や幸福の原因も社会にある」、「貧者や犯罪者を罰しても、社会は貧困や犯罪から抜け出せない」、「他人の不幸と切り離して自己の幸福を追求できるというのは無知な偏見」、「コミュニティの創出が社会問題の解決に通じる」などの思想はポランニーの思想に重なる。一九世紀から二〇世紀にかけては、「経済的自由主義とそれに対抗する社会的保護がせめぎ合った二重運動の時代だ」とポランニーは捉えるのである。
実は経済的自由主義もマルクス主義も社会的保護や自己防衛運動を保守的な階級運動とみなしていた。特に自由主義者は、市場の自己調整機能を破壊するものとして集中的な攻撃を浴びせた。
現代で考えれば反TPP運動は、保護主義的な運動の典型かもしれないが、もちろん保守的な運動ではないだろう。ポランニーに言わせれば、マルクス主義は経済的な搾取、階級対立の観点から資本主義の歴史や制度の変化を説明することに終始し、文化的破壊、社会的破局の悲惨さを見落としてきたのである。
【ファシズムの由来】
第一次世界大戦後、にヨーロッパに台頭したファシズムについても、新自由主義者との間に論争が繰り広げられた。新自由主義者は、「市場システムに対する重大な干渉が行われた結果、市場が麻痺して社会が崩壊の危機に陥った」と主張し、あらゆる社会的保護政策、ファシズム思想、ロシアの社会主義を一括りにして「反自由主義の陰謀」とみなして非難した。しかしポランニーは、自己調整的市場というユートピア、フィクション自体の破たんがその原因だとして、経済的自由主義の人間と自然に対する破壊的な作用を解明していった。
一九四七年、ハイエクが招集し「自由主義の再起」を掲げたモンペルラン会議が開かれた。そこで「経済的自由主義の優越性を論証する」という課題が掲げられ、その後世界を席巻する新自由主義の潮流になっていく。経済的自由主義は原理主義的に無謬の理論として純化されていったのである。
昨年、ピケティの「21世紀の資本」が世界的なベストセラーになった。「資本の増殖率は経済成長率を上回る、よって経済格差は拡大していく」というささやかな指摘があれほど大きな衝撃を生んだのは、新自由主義理論の全能性が揺るがされてはならないという危機感からだったのではないだろうか。
【社会における経済の意味】
晩年のポランニーは、さらに経済や社会の根源に迫ろうとする思索を深めていく。彼は経済の実質的な意味は「人間が生存の欲求のために物質的手段を給付する過程である」という原点から考え始める。同様に実質的な合理性は「社会構成員に対する財やサービスの供給が構成員の生存を合理的に保障しているかどうか」に関わるとする。
ポランニーはその解明のために、アリストテレスの時代にまでさかのぼって考察をすすめ、「互酬」、「再分配」、「交換」といった基本的な概念から始まって、制度化された経済にいたる構造全体を解き明かそうとした。
現存する経済制度は、それがいかに動かしがたい自然の法則のように見えてもあくまで人為的な制度であり、人間的共同体の目的を達成する手段として、経済を社会的な諸制度の中に埋め込んでいくことこそが重要なのだとポランニーは説く。
【人間の自由を求めて】
本書の最終章のタイトルは「人間の自由を求めて」である。ポランニーにとって、自由とは責任をともなう自由である。ポランニーの考えによれば、現在のような複雑な社会では人々は、自己の行為の因果関係を見通すことができない。すべての人は経済的な価値(貧富)の創出、権力の創出に否応なく巻き込まれる。
伝統的なマルクス主義も経済的自由主義も完全な社会を夢想しがちであるため、社会が基本原理に純化されればユートピアが実現すると考えてしまう。そのため、社会的保護のための権力を制御するための民主的な制度改革を軽視してしまうのだという。これらがポランニーの考える自由論と権力論だが、新自由主義とマルクス主義との共通点の指摘は今から振り返るととても興味深い。
ポランニーが主著である「大転換」を発表してから70年がたつ。消費社会は爛熟し隆盛を極め、市場経済は私たちが生きる世界そのものになろうとしている。逆に地域共同体はいたるところで崩壊し、ポランニーが信じた「社会」というものの実体は限りなく空洞化しているかもしれない。そんな時代だからこそ、ポランニーの思想は今までにも増して貴重である。本書は新書版であっても充実した内容で、ポランニーの思想の全貌が俯瞰できると思う。ていねいで正確な記述は予備知識がなくてもじっくりと読み進んでいける。